⑦人生はオセロ?それともパズル?真実と事実。今を楽しむための考え方。
終わり良ければ全て良し。
私の座右の銘でした。
幼い頃から基本的にポジティブな考え方を持っていたので、何か失敗や後悔があっても、最後に成功できれば全て良かったと思える。
そうやって生きてきた気がします。
人生はオセロ。という言葉があるように。
どんなに辛いときでも、最後の最後に逆転できると信じて生きていきたいと思っていました。
でも最近、今までの考え方に少し疑問が出てきたのです。
人生はオセロ。
それはある意味では正しくて、ある意味では違うのではないかと。
オセロ盤が限られた人生の時間枠だとして、黒が悲しみや失敗だとして。
最後に、白の幸せで埋め尽くすことが果たして人生の勝ちなのか。
だとしたら、オセロにはどう頑張ってもひっくり返せないような状況がありますよね。
詰みの状態です。
そんな人はもう勝ちを諦めるしかない?
私はそれが違うと思うんです。
人生はいつからでもやり直せる。
失敗も成功の一部だとするなら。
人生はオセロではなく、パズルのようなもの。
今回はそんなお話。
過去は変えられる?事実と真実の違い
過去は変えられると思いますか?
無理でしょ。
考えたこともない…。
多くの人がこう答えるでしょう。
しかし、過去は変えられるという考えをもった人も世の中にはいます。
私もどちらかといえば、過去は変えられるという考え方で生きてきました。
それはどういうことか。
簡単に説明すると、これは事実と真実の違いということになります。
400ml入るコップに200mlのお茶が入っている。
これを見てどう思う?
半分しかない…。って思う。
半分もある!
この場合、【400ml入るコップに200mlのお茶が入っている】は事実です。
そして、それを見てAくん、Bちゃんが思うこと。
【半分しか】と【半分も】
これがそれぞれの真実。
人はそれぞれ事実に、その時の状況や感情、過去の記憶などの情報をプラスして勝手に真実を作り出します。
Aくんは喉が渇いていたから、【半分しか】と感じたかもしれない。
Bちゃんはさっきお茶を飲んだばかりなので【半分も】と感じたのかもしれない。
事実は一つですが、真実は解釈なので人の数だけ存在します。
事実は変えられないんだね。
みんなのなかにそれぞれ異なる真実があるとして、その真実が変わることはないの?
良い質問だね。実は真実は君達の成長と共に常に変化していくものなんだ。
事実は過去に留まり続けます。
しかし、真実は現在の主観から感じる解釈なので、真実はあなたと共に大人になっていくのです。
つまり、事実に物語がプラスされたとき真実が生まれるということ。
例として、コップに半分のお茶が入っているという事実に物語を足してみましょう。
真夏にAくんは3キロ先のスーパーまで歩いて買い物に出かけます。
しかし、水筒を忘れて喉がカラカラ。
そんな時、偶然出会ったBちゃんが自分の水筒に入っている400mlのお茶のうち、200mlをAくんにあげました。
この文脈だとAくんはどう感じる?
半分もくれるなんて!Bちゃんありがとう!って思うよね。
そうだよね。じゃあこの一週間後の物語もプラスしてみよう。
一週間後、Aくんは友達のCくんと3キロ先のスーパーまで歩いて買い物に出かけます。
Aくんはちゃんと水筒を持っていましたが、今度はCくんが水筒を忘れて喉がカラカラ。
そんな時、また偶然出会ったBちゃんが自分の水筒に入っている400mlのお茶のうち、300mlをCくんにあげました。
これだとどう思う?
僕の時は半分しかくれなかったのに…。って思っちゃうよね。
あっ!Aくんの中の真実が変わってる!
そうだね。Aくんの中で嬉しかった過去の思い出が、未来に起こる出来事によって、少しモヤモヤする過去に変わってしまったんだ。
【Bちゃんから半分のお茶をもらった】という事実は変わりません。
でも、Aくんの中に新たな情報(物語)が加わったことで真実(解釈)が変化したのです。
つまり、過去の事実は変えられないが、過去の真実は解釈次第でいくらでも変えられる。ということになります。
オセロ思考とパズル思考
では、君たちは事実と真実。どちらが大切だと思う?
僕は真実が知りたい!Bちゃんがどんな気持ちで僕にお茶を半分くれたのか。それが大切だと思う。
私は事実で判断してもらいたいかな。
Cくんに半分より多くあげたのはたまたまかもしれないし、あげた量で感謝の質が変化するのはおかしいと思う。
事実と真実。
これは非常に難しい。
一般的に裁判などルールに基づいて公平に判断しようとする場合は、事実を重視すると思います。真実には基準がないからです。
しかし、多くの人が日々の中で重視してるのはきっと真実なのではないでしょうか。
人間である以上、事実だけに目を向けることはできません。
事実に対して、人はなんらかの感情や解釈が必ず発生します。
公平な裁判であっても、人の感情は重要な判断材料の一つ。
つまり、事実と真実は切っても切れない関係にあると言えます。
極端な話、小説はただ文字を並べただけのもの。
音楽だって音の繋がりでしかありません。
しかし、そこに意味をもたらしたり、感情が突き動かされたりするからこそ人生は豊かであるのです。
真実は解釈次第で全く違うものに変化します。
白から黒へ。それはまるでオセロのように。
ポジティブに考えれば、これは人生の希望になります。
嫌な過去も、いつか良かったと思える未来がくる。そう考え、前向きな行動をしていくことはとても良いことのように思います。
だからこそ、私は今まで
【終わり良ければ全て良し】
と、自分を励まして生きてきました。
でも、はたしてそれで良いのでしょうか。
そもそも白が良くて、黒が悪いと誰が決めるのでしょう。真実は無限に存在します。
対して事実は一つ。
仮に、ある事実を1人の人間と考えると。
真実は1人の人間の無限にある側面のうちの一つ。
と考えることができます。
AくんはBちゃんのことが好きかい?
好きだよ!
どういうところが好き?
優しくて、僕の話をよく聞いてくれるところかな。
オセロ思考で言えば、この部分が白ということになります。
じゃあもしBちゃんがAくんに怒ったり、忙しくて話しを聞いてくれない時があったら。Bちゃんのこと嫌いになるのかな?
え…。うーん、それは。
これが白から黒に変わる瞬間です。
白も黒もBちゃんの中の側面にしかすぎません。
オセロ思考というのは、Bちゃんの一部の側面(白)だけを見て好きだと言っているようなものなのです。
でも、Bちゃんのあらゆる側面を理解し、それでも好きだと思えるなら。
Bちゃんが白だろうが黒だろうが関係ないのです。
Bちゃんという一つの事実をそのまま愛するという感覚です。
私はこれをパズル思考と呼びます。
見る方向によってさまざまな形にも見えますが、
ピースの形は変えられません。
人生に起こる様々な出来事はパズルのピースのようなもの。
事実を組み合わせていくことで一つの物語、また一つの絵が浮かびあがってくるのです。
パズルに勝ち負けはありません。
ただピースをはめ込んでいくだけ。
真実ではなく、事実に目を向けた時。
私は人生がとてもシンプルなものに見えてきました。
過去の悲しみや怒りを、無理やり良かった思い出に変える必要はない。
そう思うようになったのです。
喜多川 康さん著の「賢者の書」
「人生はパズル」という考え方を見事に説明してくれてます。ストーリー仕立てでとても読みやすく、人生の大切なことを教えてもらえます!
事実を受け入れ真実を選び取る
事実も真実も両方大切ってことか。
うーん、難しい。結局どうしたらいいのかな。
まずは事実と真実の違いを理解するということが大事。そしてそこから自分に都合の良い真実を選び取ればいいんです。
事実と真実は別物。
これを深く理解できると、多くの悩みを自分でコントロールできるようになります。
事実に対してポジティブな感情が出てくるときはそれで良いのですが、いつもそうとは限りません。
そんなとき、一度自分の中の真実を疑ってみることです。
そして冷静に事実を見つめる。すると、新たな真実が見えてくるものです。
どうせなら自分が楽しくなるような真実が良いですよね。
それを客観的な視点で選び取るんです。
さっきの例だと、Bちゃんがどんな気持ちでお茶をくれたのか考えてモヤモヤするよりも、事実に目を向けて感謝の気持ちを思い出すほうがよっぽど良いってことだね。
その通り。さらに自分のなりたい姿や目標が明確ならば、真実を選択する基準ができてとっさの判断にも迷いにくくなるんだ。
とはいえ、どうしてもそんな見方が出来ないような時もありますよね。
そういうとき私は、無理に真実を探そうとしません。
どう考えたって嫌な気持ちになるときは、一旦保留にしましょう。
受け取ったピースは別にその日のうちにはめなければいけないわけではない。
今はまだどこにはまるのか分からないだけ。
どこかに置いて、分かりやすいところから攻めていけばいいんです。
悲劇や絶望はそう簡単に受け入れられない。でもそこで立ち止まってしまうのは非常にもったいない。人生はオセロではなくパズル。
やめない限り、詰みはない。
いつかなんとかなる。
そう考えてもらいたい。
無駄なピースは一つもないんですから。
今を生きる
私たちは毎日一つずつ、新しいピースを受け取っています。
今日が良い日でも、悪い日でも。
それぞれのピースの価値は等しい。
これがパズル思考の一番重要なところかもしれません。
どれか一つでも欠けると、パズルは完成しないからです。
そう考えると、今がとても大切に思えるんです。
毎日みんなそれぞれのパズルをやっている。
パズルに勝ち負けも良し悪しもない。
ただ楽しめば良いだけ。
今日のピースがどこにはまるのか、今に集中する。
パズルの醍醐味は、完成した瞬間だけではないですよね。
どんなに大作のパズルでも、完成したものを受け取るだけでは、喜びや達成感は得られません。
とてつもなく長い時間をかけてピースを一つずつはめ込んでいく。
その過程にこそ価値があるのです。
どうでしょう?
私が、人生はオセロではなくパズルのようなものと思うようになった理由が伝わったでしょうか。
オセロ思考は良い面もありますが、少し危うい面もあります。
人生は喜劇でも悲劇でもなく、ただの事実の積み重ね。
ありのままの全てを受け入れて、今に感謝する。
こういう考え方は、仏教の悟りに近いのかもしれません。
とはいえ、私も普段は些細なことで怒ったり悲しんだり落ち込んだりしてます。
【悟り】なんて程遠い感覚です。
一生無理だと思います。
でも、パズル思考に変わったことで理屈だけは少し近づけたような気がしてます。
【いつか】ではなく、いまこの瞬間が全て。
そう考えると、なんだか人生は壮大なゲームの中にいるような、ただの暇つぶしのような。けっこう気楽なもんだなって思えるんです。
夢を持つということ
人生がパズルのようなものだとして。
夢を持つということは、パズルの完成図を思い描くということではないでしょうか。
そのための行動の結果、一つずつピースを受け取る。
壮大な夢ほど、ピースの数も多く複雑になっていることでしょう。
人生には限りがあります。何もかも描けるわけではありません。
まして思い通りのピースが得られることなんてほとんどない。
こんなものどこにはまるんだろうと。
全然関係ないように感じるピースもあります。
でも、完成図がきちんと描けてるなら、それはその絵のために必ず必要な一部。
そう信じることが大切だと思います。
途中で完成図を変更しても構いません。
野球選手を描こうとしていたけど、途中でサッカー選手になりたくなった。
そうして、サッカーの練習をし始めたなら、その日からまた一つずつ新たなピースを受け取るのです。
でも、それまで野球選手を目指してはめ込んできたピースが消えるわけではありません。
自分のパズルがどこまで進んでいるのか。ちゃんと把握してなければ、よくわからない作品になってしまうでしょう。
パズルに正解はないですが、少なくとも自分が愛せる作品に仕上げたいですよね。
毎日なんとなくピースをはめ込んでいくだけでは、なんとなく描いたそれなりの作品になるだけです。
決してそれが悪いわけではないですが、もしなにか成し遂げたい目標があるのなら。
自分が次はどのピースを求めているのか、どの部分から仕上げていきたいのか。
意志を明確にして、そのピースを得るための努力が必要なのではないでしょうか。
夢を叶える人というのは、まずビジョンがとても明確です。
そして正しい努力をする。
努力しても報われないという人は、メインの絵とは全然関係ない場所のピースを必死にはめこんでいるようなものではないでしょうか。
諦めなければいつか完成するかもしれませんが、その前に時間切れになったり、
なかなか絵が見えず嫌になって、途中でもっと手っ取り早い完成図に変更してしまう。
でも、どんな完成図にしたいかなんてなかなか浮かばないよ。
いろいろ挑戦してみたいな。
君たちには無限の可能性がある。まずは大きな土台をイメージしてみてほしい。
どんなに壮大な夢にも土台は必要です。
何をしたらいいか分からない。そんなときはまず、とても大きな大地を想像してみてください。
幼いころは全てが新鮮。全てが経験。失敗を恐れずにいろんなことにチャレンジすることが大きな土台を作ることに繋がります。
いつか描きたい絵が見つかったとき、その大きな大地はとても万能な花を咲かせます。
敏感な年頃はとても傷つきやすいもの。
でもそのとき得たピースが将来大切な役割を果たすことになります。
今はまだ夢が見つからなくとも、確実にピースは繋がっていきます。
終わりに
人生はパズルのようなもの。
この考え方が私は好きです。
人生をかけたパズルの終わりとはいったいいつでしょうか。
それは【死】です。
では、人生のパズルが完成するときというのはいつなのでしょう。
私はそれも【死】なのではないかと思います。
じゃあ、思い描いた絵が未完のまま終わった人はどうなるのか?
私が思うのは、人は全て未完のまま死んでいく。
しかし、未完であるがゆえに。一人の人生が大きな一つのピースとなる。
そしてそのピースが他の誰かの人生と繋がり、地球の歴史を繋いでいく。
つまり
最終的に一人の人生は、地球規模の大きなパズルの一部なのではないか。
そんなふうに感じるのです。
だからどんなにいびつな形の人生だろうと
私は今を精一杯生きていきたいなと思います。
補足
かの有名なニーチェが残したこんな言葉があります。
事実というものは存在しない。
存在するのは解釈だけである。
ニーチェ
ここまで書いておいて全てひっくり返すようなこと言うなよと思われるかもしれませんが…。
ニーチェさんが言うには
【コップに半分のお茶が入ってる】ということすら解釈だということです。
コップも半分もお茶も。
人間が勝手にそう思っているだけ。
第三者の視点というか、もはや宇宙人の視点ですよね。
つまり多くの人が共通の解釈をすることを我々は事実と呼んでいるだけ。
確かにそうかもしれません。
というか、そうでしょう。
あまりに深い問題すぎてややこしくなるので、【事実という名の解釈】について今回はあえて触れませんでしたが、人間の解釈というのはとても面白いものです。
パズル思考もオセロ思考も、私の勝手な解釈にすぎません。
正解なんてないし、どちらも否定したっていい。
私が今回の話で子供たちに伝えたかったこと。
それは
何が正しいかではなく、何を信じて生きていきたいか。
ということ。
小さな視野の思い込みを疑い。
大きな視点で物事を眺めること。
その中で自分だけの真実を選びとって生きていってほしいのです。
自分の世界は今すぐにでも変えられる。
どんなに落ち込んだときも
幸せはいつでも触れられる距離にあるんです。